それは、1994年の終戦記念日だった。 脳出血で病院の集中治療室に運ばれた母の葬儀が行われた日だった。 その年、1994年は猛暑だった。 前年の1993年が冷夏の年で、暑さがひときわ増していた。 母が倒れたのは8月7日だった。 猛暑のために、体が耐えきれなくなったのか、と感じた。 病院に搬送された翌日、水戸から明石に駆け付けた。 病院の医師から、一週間もたないよ、延命装置つけますか?と言われた。 発見されてから半日近く経って、手足の硬直が始まっていた。 延命装置はつけたが、チアノーゼが起き尿が血で赤くなっていた。 8月12日に亡くなった。 病床につきそっていた私がほんのわずかの間に席をはずした時、 看護婦が容態変化をつげた。 午後9時4分が死亡時刻。 私が離れたすきに天に昇ってしまったのか、と感じた。 夏の暑い日に、買い物袋をさげて歩く後ろ姿が目に焼き付いている。 1940年辰年生まれであることを誇らしく、 「私は龍よ」と自賛していた。 ある龍が死んだ。 それは、90年代のある日、私から母に電話をかけたと時だった。 私は、日本原子力研究所に勤めてすぐ、水戸の社宅に住んでいた。 通話の最中に母が、電話の会話が聞こえない、と言う。 かけなおせば通話ができるようになったが、 そのうち、電話がぷつっと切れるようになった。 そのうち、社宅(原研住宅)の近くで不審な人物をみかけた。 このときに、盗聴器をしかけたのだろうか? あるいは、NTTの回線施設にしかけたのだろうか? この日から原研の職場で盗聴会話のリークが大っぴらにはじまった。 物理部の部長であった石井三彦が上司であったが、 この人物が私の通話内容を職場のなかで披露する、というものだった。 原研物理部の核物理部門、自由電子物理部門、タンデム加速器部門など、 総勢50名近くの人間がこの盗聴話しの披露に加わっていた。 そのうち、室長の岩本昭がコンピューターのパスワードを ハッキングしていることがわかった。 主任研究員の池添博が私宛の郵送物やメールの中身を盗み見ている こともわかった。 通勤途中にバスの中で尾行とおぼしき行為をしているものも見かけた。 通勤途中、那賀郡の消防署の前で消防車のサイレンが 大音量で流れているのに出くわした。 東京都内を歩行中、往来の真ん中で私に向けて カメラ撮影をする人物を見かけた。 水戸市内の