【わたしの原子力秘史シリーズ その9】夢見がちな天文少年が核物理、原子核工学、原子力ムラのプロジェクトに手を染めた挙句、名付け親としてムラの極秘情報をにぎりこれを暴露するまでのいきさつ。

茂木健一郎さんのタイムラインより

日本は、『普通の国』なんかになる必要はない!!!
私は、近代日本の悲劇は、政治が、いつも「周回遅れ」で「普通の国」を目指そうとしてきたところにあると思う。
https://www.facebook.com/kenichiromogiqualia/posts/536845109775484


わたしがこれにもうすこし言葉を継ぎ足すとすれば、おそらく、「周回遅れの野望」が悲劇のもとだった、ということになる。野望がなければ、「周回遅れ」で「普通の国」になるのは場合によってはうまくいくこともあるだろうが、問題は、「周回遅れ」なだけに、野望がないと物事動かなかったということ。
日本近代史で、どの時点で第二次世界大戦敗戦をさけられたか、という【歴史にもしもはない】クイズがなされることがあるが、日露戦争で負けていれば大戦につっこまなかっただろう、とか、日清日露戦争で大戦のレールがしかれ、日韓併合でレールの上を走り出した、などと言われる。






【わたしの原子力秘史シリーズ その9】

わたしの秘史も、周回遅れの日本の原子力の推進派や反対派につきあったあげく、いろいろな知見は得たものの、果たして進歩があったのかどうか、さだかではありません。もともとが天文少年なので、夜空の星をながめながら物思いにふける、というあたりが分相応だと思います。

ちなみに私は、天文少年であるだけでなく、これも下手の横好きで、考古学オタクでもあります。私がこの二大趣味を傍らにおいて忸怩たる思いをしながら、原子力の道に踏み込んだのは、ひとえに親の因果が子に報い、です。

昨今では、親孝行をするために子どもの進路を決める、なんてことはやりませんが、私の場合は、天文趣味や考古学趣味を親に反対されて、反発した挙句、就職を控えた大学院時代に親孝行の一つでもしてやろうか、と選択したのが、原子力工学という分野でした。工業関係の会社を経営する父親は、はたでみていて物づくりが上手いわけでもないのに、なぜか原子力でのものづくりを推奨し、母親は、息子が東京に行きさえせず近くにいてくれればどんな分野でもラッキーだったので、この二人との妥協によって進路を決めてしまいました。

このあたり、一貫性がなく、自分の人生の隘路を親のせいにして、主体的な人生設計をしていない自分をいまでも反省はしておりますが、反省してなにか変えられるのか、という基本的課題にも直面しております。




ともかく当時の私としては、理学系のサイエンスだけでなく、下手の横好き文学趣味や外国語、社会学などにも興味があったので、あまりに多くの科目をサポートしきれず、学部では落ちこぼれであったのです。

それが、大学院進学にともなって、心機一転、学科の提供するコース科目に注力した結果、まがりなりの研究者としての道が開けました。ちなみに、私は日本の大学では単位取得退学で、最終学位を取得しておりませんが、その後のキャリアコースに必要な課程はフランスにて学位を得ました。ただし、日本の大学院での教育と研究はかなり自分のためになりましたし、日本の大学院、国内外の研究所でなした研究とその出版論文は、まだ現在の私の力になっていると思います。

さて、ジェイパークの加速器駆動型未臨界原子炉ですが、フランスでの滞在研究では、CNRS(仏国立科学研究センター)の研究員の主催する研究グループにつきました。このグループは、パリ市内のコレージュドフランス(CDF)という機関に属する原子核素粒子研究のグループで、パリ大学やその他フランス国内の重要機関とおなじく、CNRSの研究公務員を研究施設に受け入れて、共同運営をしています。

そのほか、フランスには原子力庁CEA、フランス電力公社EDF、原子力産業(AREVA)などが予算と人材を提供し合ってできている研究室もあります。

このなかで、コレージュドフランス(CDF)は、かなり老朽化した施設で、予算と人材をつけるのがかなり難しい部類に属するのですが、フランス学士院とともに歴史的な機関であるだけに、フランスを代表する著名な研究者をそれぞれの部門に抜擢しています。

私が当時いたときには、原子核物理学というのは斜陽の勢いだったので、むしろ、部門廃止の動きが出ていましたが、それでも、施設内にはキュリー達(ジョリオ、イレーネ)の使った戦前のサイクロトロン加速器がまだ配置されていました。






日本でも、戦前に原子力開発をした例として、理化学研究所、京都大学、大阪大学のサイクロトロン施設がしられていますが、ちょうどこれに類するタイプの加速器です。

ちなみに、理化学研究所の原子力開発は陸軍が仁科博士に接触し、「二号研究」とよばれ、仁科博士のつくったサイクロトロンは敗戦後、東京湾へ廃棄されました。戦前の京大には、旧台北帝大で原子核物理を主催した荒勝文策という教授がいて、台湾から引き上げたコッククロフト型静電加速器をもちかえり、その後、旧海軍が荒勝教授に接触して、京大での核開発をF研究と位置づ、これにより、京大でも同様のサイクロトロン制作がなされました。阪大では、長岡半太郎門下の菊池正士教授がサイクロトロンを制作しました。

初期のサイクロトロン覚え書き 井上 信 2008.10.24
http://www.kagakucafe.org/inoue100213.pdf

この覚書を書かれた井上教授は、私が在籍した時代にも京大化学研究所で研究室を主催されていた方ですが、この京大サイクロトロンのあった場所が、京都東山の発電所ちかくの蹴上げ地区にあったので、当時、化研蹴上げ分室と呼ばれていました。

この覚え書きのなにでてくる、化研蹴上げ出身の研究者、荻野晃也氏が私が在籍した研究室の主宰教官です。荻野氏からは、蹴上げ分室にあった京大サイクロトロンのポールチップを見せていただきました。





さて、仏滞在中のコレージュドフランスの研究室での研究活動は最初から波乱含みでありましたが、原子核破砕反応のコンピュータシミュレーションという手法によって、日本への報告第一号を寄せることができました。

10.8 ルビアトロンがやってくる(抜粋)
http://ir.soken.ac.jp/index.php…

この研究が仏側で難儀であったのは、欧州原子核機構CERNの権威筋であった、カルロ・ルビアという大御所(1984年ノーベル賞受賞)が加速器駆動型未臨界原子炉(ADR)の旗振り役をしており、日本では当時、原子力業界、科学研究界ふくめて、このカルロ・ルビアのADRシステム導入に動き出していたからです。このときの、ADRシステムをルビアトロンと当時の研究者たちは呼んでいました。

ルビアトロンについては、当時、フランスのマスコミでも取り上げられました。ルモンド紙の姉妹誌に記事がでていたので、私も当時これを参考にしました。

科学ジャーナリズムの「お約束」
http://www.diplo.jp/articles96/science.html

多くの科学プロジェクトは強気で楽観的な調子で提案されるが、政治的・財政的に重大な結果をもたらす。50年代に構想された加速器連結型原子炉の一種「ルビアトロン」が、最近カルト・ルビア(1984年のノーベル物理学賞を受賞したイタリア人研究者)の手で欧州合同原子核研究機関(CERN)で日の目を見るようになったのも、マスコミの力によるところが大きい。多くのプロジェクトの予算獲得も、大体が一般誌による情緒的な盛り上げのおかげである。一般誌は資料に基いた議論をしない。プロジェクトへの激しい反対が専門誌に発表されても目もくれず、大衆には何も知らせないままなのである。

また、年代は若干前後しますが、旧原研での加速器駆動型未臨界原子炉(ADR)システムを導入するときに、ルビアトロンを土台にしながら、予算要求のための青写真にされていたのが、米国ロスアラモス研究所の中性子科学開発施設のプランですが、中身を見ると、科学研究だけではなく、総予算の30%強が核兵器の開発研究(*)に当てられているものでした。旧原研ではこれをそっくりそのままコピーして施設作りにする、ということでしたが、このプランが所内で公開されたその後、私は渡仏することになりました。

(*)原子炉からでる中性子をつかって中性子ビームを物質照射して反応物性をしらべる中性子科学という分野だが、中性子ビームは取り扱いに難しい分、技術的ハードルを乗り越えると、高性能の中性子ビーム施設を作ることができ、この施設は、より高度の核兵器に転用される。





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